昭和39年12月26日 朝の御理解
今朝からこんな夢を見た。道をこう歩いておると、道の端に若い青年が二、三人こう寝そべっておる。ふんでこうゴム草履を履いているんですね、足をこう道の方にこう投げ出しておる。私その横を通ってこう行った所がその、俺の足を踏んだっていうわけなんですね。私は踏んどらんよけたよけて通ったと言う。これは言い掛かりを付けるばいなと私が思ったもんですから、あのう逃げるがよかろうと思うて逃げ出したんです。
所が私の方が足が遅いもんですからその、追いつかれるんですね。けれども追いつかれる所でちょっとこうこうやってこの、例えばしおり戸をたってましてですね、それでわたしがそのう障子が立っておりそして、その戸を閉めたりその扉を閉めたりして、それがもう行くとはなしにその、もうすぐ追いつくのだけれども、もう捕まえられるようになるんだけども。私の戸ばこう締めてそこのばそりゃ戸を開けるのにこう暇がいろうて、また大分離れとるわけですまた追いついて来る。
一番最後にはもう頑丈な頑丈なその扉のある所をですね、そのう私がその自分がそこを抜けていて、その扉をがちっとこう閉めたんですね。この扉は向うは中々ちょいと開けられんまいばってんから、しかしどっから回ってくかが分からんからと思うてこう、ちょっと不安になっておるような所頂いた。所がその夢の中にその印象的でありはっきりしておる事は、逃げておるけれども戸を閉める時にはもう実に落ち着き払ってから、きちっとつめていきよる事ですね。
例えば逃げておるのですから、もう片一方の手でがちゃんとしたとたんに逃げるとかそんなもんじゃないです。もう後ろを見てきちっとこう閉めといてですね、そしてまた走ってこう逃げておると行った様な、そのお夢だったんですが。何時まで追われるやら何処まで、逃げなければなならんのやら果てしがつかない。しかも大きな戸をその閉めたからと言うてなら、錠でも降ろしてあるというのでもない。又そりゃどっからこう回って来てまた私を発見するに違いはない。
何処までも逃げなければならない。どこまでもそうした堂々周りのですかね。この事をしておらなけりゃならない。これはどうでも一つお互いがですね。ここん所をおかげを頂かせてもろうて。成程生き生きとした、神様の働きを頂いておると言う事ですね。もう際どい所でおかげを頂いておると。これ例えば金銭なら金銭でもうです。ね。手形なら手形から追われどうしに追われておる。ほんと追われておる。
けども愈々期日になってくると、もうそれこそもう不思議な位にきちっとこう、戸を締めておる様なもんじゃないでしょうか、ね。これは商売人が色々その手形に追われておるという、手形だけの事じゃありません。あらゆる難儀から追われておると言う事です、ね。成程お取次ぎを頂いてお願いをさせて頂くから、ほんとに神様の間違いなさもと言う事に、恐れる程におかげをこうむっておるのだけれども。
これではいつまでたってもいつまで追われなければならないやら、と言う事になるでしょう。家を建てなければいけない、ね。これは金銭だけの事ではありませんよ。健康のうえだって同じ事ですよ。人間関係の事だって同じですよ。やれやれ片付いたと。これでおかげ頂いたと言いよるけどもう次にはまた、人間関係なら人間関係で苦労しなければならないものがあるのです。夕べも婦人部会が終わった後に、ある方が二、三人残って最後のまで残られまして、ほんとにその難儀から誰やらが助かった。
おかげでとこう喜んでおられたのもつかの間、また次の難儀が今度は全然性質の違った難儀が現在またあるわけなんですね。これでは私はつまらんとねえ。それは成程難はみかげと仰るのですから、難のたんびに向上していく。難のたんびに信心が進んでいく事は有難いのですけれどもね。けれども矢張りここん所を一つ断ち切らなければいけない。そこで私はその思うんですね、私に言い掛りをつけたり、私を追ってくると言う事がです、追ってくるその人がです、言わばその言うならまあ何と言うですかね。
まあよた者ふうの人ですけれども、そのよた者だれだれではなくてですたい、ね、それはそのまま神様のお姿であり、神の、神様の働きであると言う事なんです。その人をつこうてその人をつこうて神様は、その病気をつこうてその難儀な事情の事柄をつこうて、その難儀な事柄であり。難儀な病気であり、難儀な金銭的な、又は人間関係な事によって、私共が追いまくられておると言う事。なら本名こってなら難い様にあるのですけれども、ならよくよく、その追うてきておるそのものを見ると。
与太者よたもんの姿を借りておるだけの、ただ神様のお姿であると解らせて貰う事が本当であると言う事。そこでその神様から。追われんですむ所の根をたつ所のおかげを頂ければいけないと言う事。昨夜の御理解、信心は勤めてするもんじゃないと。信心は勤めのものじゃないと、ね。信心はどこまでもお勤めでするのではなくて、信心はどこまでも、喜びを求めてするものぞと言う事。例えば夕べ婦人部会なら婦人部会がありました。今日は婦人部会たい。ちょっと顔だけはだしとかじゃと、ね。
判だけは押してこにゃなんらんと、言った様な意味合いのものではあってはならないと言う事、ね。信心の共励をするからにはです、何かを頂いて帰ってこなければおかん。所謂喜びを求めての会合であり、喜びを求めての信心であり、日参りであり所謂朝参りであり夕参りであると言う事にならなければいけんのですね。『話を聞くばかりがのうではないわが心からも練りだせ』とこう。
わが心からも練りだす練りだすと言う事。はがゆい思いをする事がある。情けない思いをする事がある。イライラする事がある。取り越し苦労が絶えない、ね。そう言う様な時には、間違いなく私共の心の中から喜びが消えておる時。喜びがなくなっておる時。だからくよくよしておるのである。中村喜久代さんではないですけれども、ね。中村さん神様から頂かれたお名前です、ね。
喜び久しい代と書く。喜久代と書いて。だから喜ぶという字を取るとあとは久代久代になる。喜・久・代ですからね。ですから例えば中村さんが、あいやぁそのう腹がたったり久代久代したりしよる時にはもう必ずその、信心の喜びというものをなくしておる時であると、その御理解頂かれた用にです、私共がイライラしたり腹だちをいやその不安であったり、情けなかったりする時にはです。
もう間違いなしにその喜びを私共はなくしておる時であると分からしてもろうて、その喜びを求めての信心。その喜びを求めての信心。勤めてからの信心ぐらいでは喜びをあたえられない。そこで喜びを求めての信心。それがです中々喜びを下さいというだけでもいけん。そこん所が泣く泣くでも辛抱してです、こうする事が本当だという、御用に打ち込ましてもらうとか、ねえ、
泣く泣く辛抱しながらでもです、こうする事が本当だと言う事を、日頃頂いておる御教えをです、いわゆる話を聞くばかりがのうではないわが心からも、そういう時に本気で練りださせて頂く事の体制をこちらが整えますとです、神様が何かの事からか、ほんと心の中に喜びを送ってくださると言う事です。その喜びが心の中一杯に広がってくるとです、今まで不安に思うておったり腹のたっておったり、どうした事じゃろかと思うておった問題が、一片に解決してしまうから不思議なんですねえ。
喜びとはそういういわば効力をもっておるものなのです。真に有難いと思う心がすぐにみかげで始めであるように、真にあいすいませんというのも同じ事、すぐにみかげの始めであると言う事です。私し共がぎりぎりそう言う所へですねえ、昨日のあのそのうご理解ですね。中林さんという方の例をとって話しました。集金に行かない。
払うものはこちら、払いにまわると言った様なですね、矢張りこの人情と神情、ねえ。人徳と神徳と言う事です。それどちらも実意を持って、成さして頂く時に、有難いが両方共それ、足ろうていかなやいけないと、言った様な事を頂いたんですけれども、そのどちらでどちらともつかない様な、所をお互い通っておるような気がしませんか。徹底人から信用されるための信心にもなりきっていない。というて徹底神様から信用を受けられる所の信心もたどってはいない。
その瞬間のなにやら訳が解らんなりの所を通っておるのだけれども、まあおかげで今日は受けておると言った様な感じがするですね。椛目の方達の場合。今日は私が申しますようにねえ堂々周りの信心からです、どうでもここん所一つ愈々んとこ愈々ん時には神様がござるから。とその例えばその逃げておる時には、矢張り心配でもありゃ一生懸命走って逃げ取るんですけれども、その例えば手形手形から追われておるんですけれども、ぎりぎりの所で必ずおかげ頂くに違いないという一つの安心は持っておる。
だから安していかなくたって、そのそこ一つ一つ閉めていきよるんですけれども、いつまでも追いまくられておったんじゃつまらないという、ねえ。もうゆとりのある余裕のあるおかげを頂かせて頂く。是は一切のものの難儀のうえにそれが言える。そこで私どもは真から根からのおかげを頂くために、ほんとに根から真から根から、ね、そういうもとを正して頂く所のおかげを頂かなければいけないと、ね。追うてきておるそういうのはですね、言わばお夢の中で頂きますように、与太者の様なものですけれども。
言い掛りを付けられない所に言い掛りを付けていくのですから、相手がにくいと思うんですけれども、ね、その与太者のむこうには神様の働きがあっておるんだと。してみると、その与太者は神様に使われて私を追うてきておるんだと言う事。だからそういう言わば、わずらわしい事がなくなる事の為に、私しは根を断たなきゃいけない、根を切らなければいけない。
それは勿論めぐりの根を断たなければいけないという信心、ね。めぐりを断たして頂く為にはです、私どもがどうでも喜びを持ってする外にはない、ね。信心はお勤めでするのではなくて、信心はどこまでも喜びを求めてのもの。どの様な場合にでも、喜びを追求させて貰える信心。喜びの追求をさせて貰う。喜びが自分の心にも頂けない。そういう時にこそ、日ごろの教えにもの言わせてです、ね。
話を聞くばかりがのうではなかったと。そこにねらせて頂いて、喜びに触れて行く所のおかげを頂かせて貰おう、でいかなきゃならんと言う事になる。ほんとに確かに難はみかげであり、難のたんびに信心が飛躍するといやもうそれまで。だからその難のもとをひとつ断たせて頂く所まで、ひとつおかげ頂かにゃいけません。自分の胸にてをおいてみると、よく自分というものを掘り下げてみるとですたい。はぁ家の難儀のもとはこれだと、言った様なものを一遍追求してです。
それをとっちめてです、ほんとにその根を断たせて貰う様なおかげを頂かせて貰わなければ、ね、何時までたっても、堂々周りの信心というか、おかげも矢張り堂々周りであると言う事。飛躍しないと言う事。今朝の私のお夢の中からで、そんな事を感じます。愈々の時には神様がおかげを下さるに違いないと、皆さんもそれを思うておられる。けれども、おかげを頂くまではやっぱり走って、その難儀から追いまくられておると言った様な、感じがしませんか。
おかげを頂きました。